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  • 執筆者の写真Sari Kaede

AOM対談:都市の虚構を拾いながら

AOM対談:都市の虚構を拾いながら

畑島楓×國清尚之(東京藝術大学大学院トム・ヘネガン研究室)


 ベタな問いではあるが、建築と建物の違いは何だろうか。“建築”と聞くと建築家の立てたオシャレでスペシャルなものだという印象を抱く人も多いだろう。建築とは特別な建物のことだ。日常とは別の次元で存在するオシャレでスペシャルなものだ。そういった偏った建築の認識が建築の理想と実際の軋轢を生み出し、建築を浮世離れしたものに仕立て上げてしまった。建物と建築の差別化を図りすぎた建築家達は建築に対する世間の認識を自ら歪めていき、その殆どが建物で構成される日常の風景から建築というスペシャルなものを孤立させていったのかもしれない。90年代以降の建築家が都市から撤退せざるを得なかった状況が、ことの重大さを象徴している。そこで、日常における建築の存在を探求する活動が2010年代から勃興した。9.11テロ事件によるグローバリゼーションの負の側面の認識や、3.11大震災以降のコミュニティの希薄化の再認識がこの動きを大きく加速した。同時代に建築を学び始めた者として、再び建築の世界が過渡期に突入したような印象を受けた。例えば『ArchiAID』や『みんなの家』のような活動は建築家的視点が日常に介入することによる社会全体のバージョンアップを促し、『小さな風景からの学び』は日常のトリミング作業による価値観の再構築を実現した。僕が大学に入った2013年は、このような系譜がコミュニティ論を主軸に展開していたのを覚えている。そこで、日常における建築の存在を建物としての側面から探求できないかと考えながら学生生活を送っていた。今回の対談は、そんな立場を常日頃から共有してきた國清尚之氏を相手にしたものであり、相当にディープなものになるのではないかと期待している。

(2016年10月12日)



既[fig.1]存風景を解体し再構築する手法(牛乳パックの解体)

畑島:

この冊子AOM(Action Of Me)は、これまでの活動を紹介したものです。今までの活動を振り返ることで気がついたのですが、調査から設計に至るまで私が一貫して試みてきたのが「リズムスケープ」という考え方でした。まとめの章にも記載した通り、國清さんが似たようなアプローチによって建築を思考していることを全国設計行脚を通して知りました。


國清:

全国設計行脚に参加していた当時は、学部3年生の時ですが、世の中にあるいわゆる"普通"の建物たちは果たしてどんな論理を持ってこの世の中に生み出されているのだろうか、というようなことを考えていました。そして、自分の頭の中の非物理的な考えやイメージを建築という物体として成立させるための論理を模索していた時期でもありました。私は、自身の設計手法を「micro Re: construction」と命名したのですが、ざっくりと申し上げると小さな断片から大きな建築を作る、といったイメージです。


畑島:

なるほど。同じような問題意識から似ているけれども異なるアプローチが生まれていることを知り、安心しました。それまで私が抱いていた建築家の作品というのは、建築は作品であり、風景は風景であるといった分断した思考をしているようなものでした。しかし、その”普通”であることに人々の生活に根付いたの普通の美学が隠れているのではないか、と考えたのが問題意識の出発点です。そのような普通の風景を読み込み、自分というフィルターを通して建築に落とし込んでいくという過程に強く共感しました。國清さんが当時から模索していた”自分の頭の中の非物理的な考えやイメージ”というのは、このようなフィルターのようなものを指すのでしょうか?


國清:

そうですね。都市を漂流する中で、自分が思わず足を止めてしまう風景たちがあることをなんとなく感じるところから始まったのですが、大事なのはその風景たちに大した特徴がなかったことだと思います。しかしながら、それらは私にとって魅力的に見えてしまう。どこにその魅力を感じるか、ということを問うた時に、風景を断片化する、あるいは部分として抽出することでその理由が明確になった気がします。それは、都市特有の複合的デザインの抽出のようなものですが、その複合性こそが、私の中の"非物理的な考え"の具現化された一例だと考えました。


畑島:

大した特徴もない風景に魅力を感じるような経験は私もよくあります。いわゆるトマソンのような、どこにも繋がらない階段や小道などを発見すると嬉しい気持ちになります。それと同時に、このような断片の発見から取り壊されて不可視となった都市の見えないレイヤーのようなものを感じ、その場所の痕跡にあれこれと思いを馳せます。一方で、このような風景が複合的(そして限りなく”普通の美学”によって支配された)ものである限りは、このような発見は観察対象の断片でしかないようにも感じます。

複合性という言葉を私は”都市のリズム”と呼んでいますが、対談の冒頭で國清さんが普通の建物が何かしらの論理を持っていることを指摘したように、都市や風景というのは莫大な文脈を抱えて存在しています。そのような都市が持つ”普通”な風景というのは、「平均化された風景」というよりも「偏差化された風景」と言ったほうが正しいのかもしれません。つまり、風土や人々の気質を含めた複合性であるが故に、私たち設計者が観察して面白いと感じるような偏差が生まれるのです。この偏差、もしくは魅力的な風景を抽出する過程のことを「断片化」と呼ばれているのでしょうか?また、莫大な文脈を抱えて存在する風景を”非物理的な考え”に置き換える際に、観察者が魅力的に感じるか否かでフィルターをかけてしまうようにも感じられますが、あくまで中立的でない”建築家”という立場を取られているのでしょうか?


國清:

「偏差化された風景」というか「風景を偏差化すること」自体は、ほとんどの設計手法と変わらない言語かなと感じます。そこからもう一歩踏み込んで、どのようにして偏差化をするか、に新規性は求められると思います。それは、"都市のリズム"であり、"断片化"であると思うのですが、だとすると観察者としての恣意性自体にそこまで固執する必要はないのではないかと、最近考えています。私は、物理的に断片化した後に言語的な再構築を同時に試みましたが、そこで重要なのは都市の時間をどう取り込むかではないでしょうか。建築と都市の違いの一つに、時間による状態の変化があります。その刹那的な風景を抽出することこそが、都市に焦点を当てる最重要点であって、観察者の設定に対してはもっとドライであっていい気がするんです。


畑島:

2000年代以前の一般的な建築家の手法では極端な恣意性が環境の読み取りから実際の設計に至るまでを支配していたように感じます。一方で、1993年生まれの私たちが知っている建築の21世紀的状況というのは極端な客観性を標榜しています。例えば、リサーチやサーベイによる調査では誰が観察者であっても再現可能なプロセスが求められており、21世紀的状況を踏襲した学校教育の枠組みの中では風景における偏差と平均の間を行き来できないことに息苦しさを感じることもありました。なので、「観察者の設定に対してはもっとドライであっていい気がする」という姿勢の同世代がいることに心強さを感じます。言うまでもなく、観察者の設定をドライにすることで風景を偏差化していく"都市のリズム"または"断片化"という手法は、先に述べた2000年代以前の手法における”極端な恣意性”とは別のものです。

ここで、”都市の時間を取り込む”という新しいテーマが出てきました。これは設計行脚の展示の際にも試みていたことなのでしょうか?


國清:

設計行脚当時は、特に時間という考え方はありませんでした。その後卒業設計で、私は都市における偶然的な風景(例えばある朝のゴミ箱の配列やある時期の緑の領域など)を抽出したのですが、この頃から"時間"という変数の存在を明確に扱うようになりました。私は、この偶然的な風景たちを「都市の虚構」と呼んでいたのですが、これらには都市の風景におけるデザイナーの複合性が裏付けられていて、かなり具体的に"アノニマス性"が高められたものであると言えます。



[fig.2]日常の風景を再解釈し、空間言語に置き換える

畑島:

なるほど、都市の時間を取り込むの”時間”の概念がよく分かりました。

本冊子10章でも紹介している<Listen Space Carefully>の調査を行うときに、僕の指導に当たったAA schoolのTak先生が、「畑島くん、都市には時間の流れがある。君の主張するリズムスケープに加えるべきは時間によってリズムが変化するという視点じゃないかな?」と言いながら、僕の目の前で椅子を動かしてみせました。そのときは、時間的な概念を都市のリズム(断片)の回収に持ち込めずに苦悶していましたが、國清さんが同じような問題に行き着いたというのは必然かもしれません。ちなみに、Tak先生に指摘されたときは『ロンドン市内に落ちている煙草の吸殻を地図上にプロットする』ということを試みました。吸殻は継続的に発生するし、時間が経てば雨で流されて消えてしまいます。都市の時間軸の中で見ると、極端に刹那的な存在なのです。このプロットから収集できるリズムスケープとして、「ロンドン市内の喫煙者はどんな場所に滞留しているのか?都市の中で、彼らの居場所とは?」という断片を回収できればと考えていました。実際には調査量が多すぎて、スタジオの期間内に完結しなかったのですが…。


そのような刹那で偶然であり、分析可能な対象であるという意味では必然とも思われる存在を「都市の虚構」と呼ぶ感覚は十分に共有できます。トマソンのように認識可能な風景としては残らないけど、それこそが都市のリアルなんだという実存性を端的に表した言葉ですね。卒業設計においてこのような”時間”を対象とした調査を明確に扱ったということですが、実際にどのようなプロセスを踏んだのかは大変興味深いところです。全国設計行脚で発表した作品のおさらいと、卒業設計の解説をぜひお願いします。


國清:

煙草の吸い殻を地図上にプロットすることで、都市の様態を表そうとする試みは面白ですね。そこから、具体的にどう建築の設計手法に結びついていくのか気になるところです。というのも、こうしたアプローチは都市のリアルが浮かび上がってしまうことで、ポストモダン的なシンボルとしてのディレクションに誘導されやすい方法でもあると思うんです。

実際、全国設計行脚でも卒業設計でもそこには悩みました。前者では、そこから乖離しようとして、小ぎれいな建築物を設計してしまいました。建築計画やプログラムを後から持ち込んでモダニズム的に建築物を成立させようとしたわけです。卒業設計では永代供養墓を提案したのですが、こうした死者の空間を提案したことが正直かなり論理を成立させてくれた節があります。墓、という死者の空間は生者がデザインせざるを得ないのですが、そこに社会情勢や経済原理が持ち込まれてしまっていることを問題としました。そして僕の抽出した"都市の虚構性"は、そうした生者の意図が極力削ぎ落とされた断片として成立しているものです。この断片を紡ぎ合わせてできた巨大な墓は、生者の事情とは全く異なる論理でこの世に存在してしまうわけです。そんな、建築でもなく、都市でもなく、大地のようなおおらかな存在の上で、死者の空間と生者の生活がどう併存していくのか、をデザインしました。つまり、その街のリアルを可視化することが目的ではなく手段としてのみ利用する形で、そこに”時間"="偶然性"を包含させることが重要だったということですね。


畑島:

調査によって都市のリアルに触れすぎると、その生々しさゆえに偏差が本来の有用性を超えて設計をドライブしてしまうという経験はよくあります。このような調査の理想と現実の乖離は、莫大に存在する都市の偏差の中から本当に断片化すべき対象の優位性を見失わせてしまうという点で「風景を偏差化」する際の妨げとなります。リサーチやサーベイと分析結果の相関性に、あえて抽象度(言語化を避けるという抽象度ではなく、建築の魅力的な設計手法に置き換えるための解釈の幅)をもたせるという努力も必要だと痛感しました。


國清さんの卒業設計における設計物に時間(=偶然性)を与える試みは、墓という普段私たちが住む都市の風景とは別の次元で構築されてきた風景だからこそ挑戦することができた”断片化”の例なのかもしれませんね。「建築計画やプログラムを後から持ち込んでモダニズム的に建築物を成立させようとした」という過程は、神保町における全国設計行脚のシンポジウムでも共有することができました。「リズムスケープ論」や「micro Re: construction」のような理論を掲げた私たちが、町に住んでいる人と同じ目線から泥臭く町を観察する様子は来場者には奇妙に映ったかもしれませんね。また、泥臭い調査による断片の回収から導出される実際の設計手法がドライに進められていく様子を見て、結局は前近代的な設計手法に帰着したようなイメージをもたれた方もいるかもしれません。卒業設計の解説からはそのようなドライな印象をあまり受けませんでしたが、実際にはどのような断片に着目して"都市の虚構性"を抽出していったのでしょうか。



[fig.3]micro Re: construction/風景の抽出と再解釈

國清:

簡潔に言うと、"刹那性"と"複合性"を含むものです。ドライになると言うことは、物体に付き纏ってしまう条件をどれだけ削ぎ落とすか、と言うことだと考えています。例えば、基本的に物体にはそれを生み出した人の意図として、"機能"が付随しやすいですよね。しかし、僕が先ほどから申し上げている、都市特有の偶然性は、基本的に"機能"が削ぎ落とされたものです。具体的なデザインプロセスについて述べると、偶然的風景を写真に納め、そこから風景の中に見える形のみを線として取り出し、三次元空間を構成するツールとしました。この時、重要なのが取りだした意味のない形に意味を与える過程を踏んだことです。これは、設計行脚の時と変わらないデザインプロセスの一つですね。


畑島 :

まさに”都市の虚構”ですね。偶発的風景は都市の中で役割を終えたもの、もしくは初めから役割を持ち得なかった排泄物的な物として、都市に存在し続けることを拒まれます。これは生者のための都市に対する死者のための墓というプログラムと重ねて解釈することができ、都市の機能性をメタ的な視点から死者に切り分けていくような感じがします。

無機能な偶発的風景か虚構的かつ刹那的な風景を抽出する際に対象を線に置き換えて解釈するというところに設計者のフィルターを感じます。フィルターというとリサーチの純粋さを捻じ曲げるような聞こえがありますが、むしろ設計者の意図とリサーチが迎合する地点としてのポジティブなフィルターだと思います。


形態に意味を持たない抽出対象に再度意味を与えるときに、実際にはどのようなプロセスを取られたのでしょうか?設計行脚の場合と卒業設計の場合と、両方伺いたいです。


國清:

2つの課題の間で、意味の与え方に決定的な違いがあります。それは、人と空間を同時に考えたか分けて考えたかです。設計行脚においては、抽出対象に意味を与える際に人の振る舞いを基に、空間としての概念を与えていきました。意味のない形と言えど、形を持てば物体は意味を持ちます。同じように物体が目の前にあると、何かしらの人の振る舞いがそこで生まれます。この妄想的な振る舞いこそが、あらゆる条件を削ぎ落とされた物体の純粋な性質ではないかと考えたのです。


一方で、卒業設計においては、人の振る舞いは考えませんでした。抽出した形態の性質を考える際に、人の振る舞いを考えるとそれは物体の性質の純粋さが少なからず狭まってしまうことに気づいたからです。これは、もちろんどちらが良いという訳ではなく、単純に"墓"という特異なプログラムであったためだと思います。死者は墓で何かを振る舞う訳ではなく、振る舞うのは生者ですからね。笑


畑島 :

なるほど、無機能だけど人の振る舞いによって生み出された偶発性を線として再利用し、偶発的な振る舞いを狙うということですね。一方で卒業設計は死者のための空間であったが故に、偶発的な形態に振る舞いを結びつけることはしなかったのですね。ここでリズムスケープ論の視座から國清さんの設計手法を見ると、どの抽出対象(偶発的風景)を設計物のどの位置に反映させたのかが気になります。実際に抽出対象を線に置き換えて建築物に変化させていく過程で、組み合わせ方次第で無数の風景が構築可能だと思います。調査と同様に、かなり設計物の質をコントロールする段階だとは思いますが、そこに配置学的な意図があれば教えてください。



[fig.4]SDLや台湾の卒業設計展などで展示した最終成果物

[fig.5]空間構成のダイアグラム

國清:組み合わせの基素材となった偶然的風景の数は、30でした。しかし、これも120だったり54だったりしたこともあって、結果的に30になったいう感じです。また、30の組み合わせから150くらいの祈りの空間をデザインしたのですが、最終的には77の祈りの空間の組み合わせで設計物はできています。しかしながら、この数自体はそこまで重要ではなく、大事なのはその過程そのものの論理性ですので、特に気にしませんでした。言ってしまえば、莫大な時間をかけたスタディというか力技ですね。ここに10日くらい掛けてます。配置の意図としては、死者の空間でどのように生者が振る舞うか、という観点から77の空間の連なりを1つ1つ検証していって決定していきました。もちろん、そのデザイン1つ1つに矛盾が生じない慎重さがあるかないかでかなり変わってきますが、正直言うと、ここからのデザインプロセスにおいては論理でどうこうなるレベルの話ではないと思います。



[fig.6]空間の要素(卒業設計Diagram)

畑島 :

調査を設計に落とし込んでいく中で配置学的な工夫や具体的な構成には理論は持ち込まないということですね。僕も設計の最初から最後まで理論を展開する必要はなくて、ある程度のインスピレーションを得た後は設計者の感覚でクオリティコントロールしていいと思っています。


この対談全体を通して僕と國清さんの設計手法が相対化されてきました。全国設計行脚のときは「普遍的な風景からルールを見出すことで、風景を再構築する」といった立場で意見が一致していたと思いますが、今後の舵の切り方は大きく異なっていきそうです。冒頭で伺った”小さな風景から大きな風景を再構築する”といつ手法は今後も続けていくのでしょうか?また、「micro Re: construction」の展望について教えてください。



國清:もちろん続けていきます。時間を経るごとに変わる感覚が文章では現れるのですが、それはひと続きですので、ずっと進化し続けていると考えています。今現在では「micro Re: construction」の中に5つの連関性あるトピックを定義しています。


それは

1).Coexistence:併存

2).Relational size:相対的大きさ

3).Narrative:物語性

4).Anonymous:匿名性

5).Echo of feeling:共鳴

です。


詳しい内容は割愛させていただきますが、基本的な内容は今回の対談で述べたような話です。今後の私の作品は「micro Re: construction」:小さな断片の再構築、というタイトルを中心に、上記のうちのいくつかのトピックをその都度具体的なテーマとして取り上げていくことになると思います。


畑島 :

今までの思考を5つに解体して、都度使い分けるということですね。理論は都市のリアルを通してインスピレーションを与えてくれる一方で、中途半端に導入することで感性の表現幅に制限を与えてしまいかねない諸刃の剣です。この都市にはこういうリズムがある、設計の可能性があるというポテンシャルを最大限に引き出すためにも、理論の適用具合には慎重になりたいですね。


國清:

そうですね。僕らに共通した設計手法の内容として、主観性を他人に共感してもらうための理論であると同時に、自分自身の道しるべにもなっているはずです。だからこそ、理論を構築する前の感覚的な部分を重要視することは、かつてのグローバリゼーション時代の記号論を超えた価値の創出に繋がるのではないかと思います。



[fig.7]都市の漂流(卒業設計diagram)

畑島 :

使用者や環境の主観に立つためにワークショップや自主建設に委ねる手法が横行していますが、こういった主観性の獲得はまだまだ過渡期的な状況にあると思います。本書AOMにも記載の通り、スクラップアンドビルド文化圏であるアジアの建設マーケットが拡大しつつある現代においては、主観性を共有しながらも次の次元に建築を昇華していくプロセスの確立が急がれます。その苦難を先に経験した国の設計者として、「micro Re: construction」や「リズムスケープ論」のようなプロセス論はアジアの同地域に輸出すべき考え方のように思われます。記号論の時代とは異なった質の高いグローバリゼーションが訪れる。そのグローバリゼーションは地域性を押し殺す画一性を意図したものではなく、地域や環境と一体となった風景を創出するために有効活用される。そんな明るい交流が展開される予感がします。

今回は面白い対談をありがとうございました。


國清:

こちらこそ大変勉強になりました。どうもありがとうございました。


以上

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